しあさっての夢を見る

気がつくと虚無を探しながら歩いている。

寝たフリしてる間に出て行ってくれ。

はてなブログに愛想をつかされた。

(もしくは深淵にアレをソレされた)

「たまには何か書いてみない?」「こんなお題はどう?」といった訴えにひたすら背を向けて寝たふりをしていた為である。結果はてなブログは出て行き、メモ帳には日記ともつかない言葉の切れ端ばかりが降り積もっている。無闇と大容量であるメモリに生成されるデータの地層から化石とも呼べそうな数年前の写真を発掘し、ほんの少しだけ整理した。記事を書かずにいた期間で自分の環境はある程度変化して、離れた人も、放した人も居た。興味の続いたものも、失せたものもあった。

 

地層は様々なものを含んでいる。自分がこのスマホを手にしてからのある種の歴史は、ところにより驚く程鮮やかだ。喜怒哀楽のトリガーが其処彼処に埋まり、今の自分の心に「あの日」を伝えてくる。

しかしながら自分の心は随分長く、凪いでいた。仕方ない事や、どうしようもない事。どうしようともしない自分は、それでも屋根の有る家に住まい、職をうしなう事もなく、偶には友人と語り合い、旅行をして、今年買ったばかりのベッドで眠り明日へゆく。平和な事であり、有り難く、また恐ろしい事である。なぜ恐ろしいのか。昔の知人が「諦める為の『仕方ない』は悲しい」というような言葉を口にしていたのを思い出すからだ。自分は何度「仕方ない」と意識した事か知れない。

心の凪は、恐ろしいのだ。フラットな状態に憧れるのは「いつか来るその時」の激情を自分のすべてで余さず受け止める為の下準備として最高だと思うからだ。だのに感じる為の機能が凪続けて波立つことを、波立てる事(可能の意味合い)忘れてしまったら。自分はまた、何かを取り零す。また、「仕方ない」と呟いてしまう。

決して時間を共にしてくれる友人達が悪い訳ではない。ただ、己の為にもそろそろ死にかけたものを動かしたく思うのだ。丁度今年も、あと2日で終わる。節目としたい。有言不実行とならない事を願おう。

 

この心が元から生きてなどいなかったとしたら、その時はその時。もう死んだのだ、と思うのもまあ、事実。それでも取り敢えずは低めの血圧に喝を入れて、巡る血の感覚を、心がさざなみ立つ瞬間を、思い出していきたい。そんなふうに夢想しながら、今日は目を閉じる。

数年前の下書きが残っていたので、引き摺り出しておく。